@article{oai:mue.repo.nii.ac.jp:00000879, author = {田端, 健人}, journal = {宮城教育大学紀要, Bulletin of Miyagi University of Education}, month = {Jan}, note = {本稿は、グローバル化する科学テクノロジーの危機に抗する教育哲学的エッセイである。まずはじめに科学テクノロジー時代の危機を、ハイデガーに従い「ゲシュテル(総かり立て体制)」としその解説をした。本稿の核心をなす問いは、「どうすれば私たちはゲシュテルから救われるか」である。その哲学的応答として「存在が救いである」というテーゼ(第₁章)と「存在は戦争である」というテーゼ(第₂章)を検討し、この二律背反を克服する第₃の道を探るためパトチカに着目し、ヨーロッパ諸学問へのフッサールの危機意識の限界を批判し、ハイデガーの危機意識がいっそうラディカルであることを指摘する(第₃章)。パトチカによれば、ゲシュテルの本質はあらゆる存在者を挑発し利用可能性と計算可能性に向けて徴用することにある。またハイデガーが指摘したように、ゲシュテルは人間の技術欲に起因するのではなく、いっそう根源的にテクネーという真理生起の次元、私たちの生活世界を下支えする存在理解の次元で生じている(第₄章)。こうした存在理解に根本的変容を強いるものとして、パトチ カは「犠牲」をあげ、犠牲においてはそれまで隠されていた「いっそう高いもの」が開示され、「自己卑下」と「慎み深さ」という根本気分が生じるという(第₅章)。パトチカによれば、ゲシュテルの進行拡大の時代状況からして、「何かのための犠牲」という素朴な実行様式から、「何のためでもない犠牲」という先鋭的な実行様式への移行が必要である(第₆章)。その典型例として、本稿ではパトチカのいう「前線兵士の震撼」「震撼させられた者たちの連帯」を再構成し(第₇章)、この犠牲の思想がハイデガーの洞察にも通じることを指摘する(第₈章)。しかし犠牲による危機からの救いには問題や限界がないわけではない(第₉章)。それを批判的に吟味したのち、本稿ではパトチカが着想したであろうさらに別の道、「閉じた魂」から「開いた魂」への「転向の教育学」の道を検討し、パトチカ によるコメニウス研究の批判的受容の必要性を指摘する(第10章)}, pages = {355--366}, title = {科学テクノロジー時代の危機と転向の教育学─ヤン・パトチカ「犠牲の現象学」から─}, volume = {54}, year = {2020} }